『抱きしめて「総合」「小さな小さな大豆マンの大きな大きな夢の冒険』(2)
佐藤 広也

1.質の良い科学を!  「総合」での学びを通じて「学力」について考える

 生活科は「低学年社会、理科だ」と力んでみても、実際は、ただ<葉っぱ><どんぐり>を「みつけたよ」「ひろったよ」「あそんだよ」で何が「学力」だ。基礎計算は学力である。人類が多年に渡って積み上げてきた質の良い科学を、いかにわかりやすく教えるかが、学校の学びの中心。「総合」も、「活動」はあるが、先の生活科の状況と同じに分析や考察もなく互いの「活動」を<学び>として分かちあわない。それだから計測可能ないわば量としての「学力」ではない<学び>が多い「総合」は一見、「学力」議論と別なところにある。分析なし、科学なしの<活動主義>や、分かちあいなしの子どもまかせで、どんな低レベルの報告も、「みんなちがってみんないい」、とする<子ども主義>、数字を写すこと、インターネット資料をべたべた貼って丁寧に写して、目の前の人や情報の向こうの人々との接続とメディアリテラシーのない<調べ学習>と、それを「言語コミュニケーション能力の育成」として発表の練習やインタビューの練習をくり返す「総合」、総合的な学習の時間をどの「行事」で使ってしまおうかと狙う向きもあり、<基礎学力>の「鍛錬」を「総合」に組み入れる動きなど、基礎学力と対立的な議論が多い。どれか一つが「学力」であるとはだれもいわない。しかしでは一体、と問う時、「力」(power)概念で捉えてしまうことが学びと学力を深い袋小路の迷路へ子どもたちを追い込む。このことを憂う。大それたものではなく、「ダイズ」の学びの実践報告を軸にして考えてみよう。教師と学校が揺れているのは事実である。保護者のゆらぎもまた同様である。だがここでは、教科書・学習指導要領の内容といったベースとなるならざるをえないものの激変が直撃している事実がある。教育課程をちょこっといじくればよい、というものではないこと、五日制始動でのもたつきもある。
前のページ次のページ

©2004 dabohaze no kai all right reserved