『抱きしめて「総合」「小さな小さな大豆マンの大きな大きな夢の冒険』(7)
佐藤 広也

6.学びの内容論のイメージを持つべきである(1) 

小学3年「総合」と教科をつないでの「さんさんいっぱい大豆探偵団」のとりくみから学びと学力を考える。学びは全て総合である。分析と総合がセットだ。学ぶ過程で身体に蓄積されたばらばらなことが、ある日、つなげてみると「ほう、そうか!」「わかった!」という感動として返ってくる。「考えるとはつなげることだ」とパメラトラバースのことば。「only connect」(ただつなぎさえすれば)のその中にしっかり教師と学校がすわっていたい。その、「ほう、そうか!」のために、子どもが個々に何かを手がかりにつかむ学びの姿を「探偵」と言い習わしてきた。またその探偵達が集めた手がかりをつなぎ合わせて推理する「探偵団」活動が存在する。学校は中央区宮の森。文教地区のただ中である。

・食の今と昔を考えることで知識を知恵にする。・体験を地域や父母と共に創っていく探偵を考える。・探偵の過程と探偵の成果の体への蓄積を大切にシェアリングでみんなの知恵にしていく。さしあたって、このように活動のねらいを教師団は把握して、「大豆」のテーマで学びを作る。それは社会や理科、国語で区別し統一された「活動構成シート」の時間配分でほぼ行くが、教科との相互の乗り入れがある。学びの到達<ピーク>は、「三角山祭」で見られる。その過程での討議や様子は、探偵ファイルや絵日記などで活用している。portfolio資料である。

前年度の「総合」で配分された時数と内容の学年の「活動構成シート」の検討と吟味→次の学年へ引き継ぎ→子どもたちとの出会いで、活動構成シートの改編、おおよその枠組み決定→ねらい、他教科との接続を実施にあたって設定→三角山祭でそのピークを→学習発表会→

おおよそこうしたサイクルを伴い、入口・出口はある程度構想しながら次へ残すべき素敵な活動は財産として受け継ぐようにと考えて、学校では教職員の研究が進んでいる。

学びはいつだって総合的なものだ。その学びが「ざる」のようにただ体を通り抜けるのかそれとも蓄積的に内蔵されていくのが、「学力」を考える上での一つのメルクマールであろう。「総合」の学びのスタートは、子どもから、という点ははずさない。だが、子どもの権利条約は言う。「その持てる最善のものを子どもへ」と。子どもの今もてるものだけに寄りかかることが、子どもを原点、原理とすることではない。どんな結果が待っていても、学びは確かに学びだが、それが先の「ざる」体験のプログラム化では子どもを原理にしているとはいいがたい。横断的縦断的といいながら、徹底的に要素だけを線で結んでも実際の学びが存在しないのでは意味はない。どんな、人間観、自然観、社会観を育てるのか、という「観」の形成への方向性が必要だ。だが、子どもを原理としていなければ結局、ただの押しつけでしかない。くり返して豆腐を作ること、漢字や計算をくり返すことは同じでもない。どちらも確かに大事なことである。
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